この日本列島にいつ頃から人が住みついたかはわかりませんが、太古の人たちは狩猟・採集の生活を送り、石の道具を用いていました。
約一万年ほど前から、木器や石器、骨角器のほかに、粘土を焼いた土器(縄文式土器)が大量に作られました。土器の中には、炎のような力強い装飾を持ったものも見られます。
紀元前2世紀ころ、大陸から稲作の技術とともに、青銅器、鉄器といった金属器の文化が伝わり、北九州から全国に広まりました。弥生時代の社会は農耕を基本とする共同体で、農耕によって人々は村落に定住しました。銅鐸、銅鉾などの青銅器の他に、刃物など鉄製の工具は木工技術を急速に発展させ、木製の農具や織具も作られました。土器は弥生式土器と呼ばれる、実用にふさわしい機能的で簡明な造形をもったものとなってきました。
農耕文化が発展すると、農村社会は村から国へと広い地域の統一への動きが見られ、強い権力を持った豪族などの支配者が出現します。3世紀後半頃からこれら支配者のための壮大な墳墓が現れ、貧富の差も生じ、階級社会への移行を見せます。
古墳時代の生活用具は、中国や朝鮮からの渡来者がもたらす進んだ技術によって進歩拡大しました。朝廷や地方の豪族たちは自己のための生活用具を確保し、その技術の独占を図るため、渡来者を中心とした特定の技術集団を支配下に置きましたが、そこでの技術は親子関係の中で伝えられたと考えられます。
古墳時代の後期には、大和地方による国の統一が成立しました。朝廷は主として飛鳥地方に置かれましたが、6世紀の中頃に仏教が伝わり、日本の文化の発展に大きな方向性を与えることになります。また、寺院の建設や仏像の製作のために、木工、金工などの技術者が朝鮮半島から渡来し、これらの技術は飛躍的に発展しました。
8世紀の初め奈良に都が移されました。国家の保護の下に、仏教文化は黄金時代を築きます。各地で国分寺・国分尼寺をはじめとする造寺、造仏が行われ、東大寺の大仏のような巨大な金工品が作られました。
生活用具の材料、技術、意匠の面でも同じように大陸の影響を受け、多様性に富んだものが作られるようになりました。遣唐使が派遣されるなど、唐の文化の影響を強く受けましたが、奈良・東大寺の正倉院には、この時代大陸からもたらされ、また国内で作られた様々な文物・工芸品が、宝物として現在まで大量に残されています。
工芸品に用いられた文様(模様)も国際的な性格を持ち、シルクロードを通って伝えられた鳳凰(ほうおう)、獅子(しし)、麒麟(きりん)や宝相華(ほうそうげ)、蓮などアジア各地の題材が多く、また法隆寺の玉虫厨子に見られるように唐草模様や忍冬文など、遠いギリシャやペルシャに起源を持つものもあります。
なお、この時代、租庸調といわれる物納課税制度のため、地方からは絹、麻布、鉄などの産物を納めなければならなかったので、これにより生産の基盤が各地に定着しました。
8世紀の終りに都は京都に移り、公家や貴族を中心とした文化が栄えました。寺院建築や造仏の技術の影響を受けて、金工、木工、漆工の分野で技術が著しく進歩しました。 この時代の初めに最澄と空海が中国から帰朝し、密教(天台宗・真言宗)を伝えました。
遣唐使が廃止(894年)されてからは、生活用具もわが国の生活感覚に適合するよう工夫され、従来の唐風の形態意匠に代わって、日本的な美意識を持つものが数多く作られました。工芸品も直線的な形から、ふくらみを持った柔らかな形となり、模様も左右対称の配列から、自由で変化に富んだ絵画的なものが用いられるようになりました。公家や貴族は季節や各種の行事に応じて、美しく飾られた調度類を部屋に配置しました。
西方極楽浄土の阿弥陀によって成仏を願う浄土教が盛んになってからは、この世に極楽浄土を再現するかのように、多くの寺院も様々な工芸品を必要とするようになりました。これらの工芸品は宮廷内部に置かれた工房で作られましたが、地方では土地の私有化が進み荘園体制がしかれるにつれ、荘園を経営する地方豪族や領地内の人々のための生活用具を生産する独立した工人が現れるようになりました。
武家や新興教団を基盤に、宋の禅宗文化を融合させながら、剛健で写実性や平明性を重んじる文化が構築された時代です。
荘園体制の中でしだいに勢力をつけた武士階級が政権に携わるようになり、12世紀の末に平家が滅亡すると、これに代って源氏(源頼朝)が鎌倉に幕府を設立します。武家政権を支えたのは御家人(武士)でしたが、御家人は一方で、貴族の経済的基盤である荘園を領地化していきました。このため貴族に代って武士や農民層の生活文化に著しい発展が見られます。農作物の生産が増加し、生産物が「市」で取引きされるようになりました。
また、これまで荘園の領主や貴族に対して従属的な立場にあった生活用具の生産技術者(例えば、鍛冶、焼物、鋳物、木工などの分野)が、専門の職人として地位を高め、これまでの手間賃仕事から、ある程度の需要を見込んだ見込み生産を行ない、余剰製品の一部を「市」で売るようになりました。このような生産形態の変化は、手工業が各地に成立するきっかけとなったということができます。
工芸品のデザインは、平安時代の優雅な公家趣味を残しながらも、武士の興隆を反映して次第に簡素さや力強さを表現したものが増えてきます。新しく入ってきた禅宗や宋の工芸品の影響も見られます。
14世紀の中頃、足利氏は京都室町に幕府を開きます。禅宗を背景に、宋や元の文化の影響が加わり、北山・東山文化が栄えます。産業や都市の発達に伴い、新興庶民の生活を反映した簡素で明快な美が生まれ、地方にも文化が普及します。
荘園制は、守護や武士の領地化、郷村制度の影響を受けて、応仁の乱(1467年)をきっかけに崩壊をはじめました。明や朝鮮半島との貿易では、銅、金、硫黄などの原材料や、扇、漆器、刀剣などの工芸品が輸出され、生糸、絹織物、綿糸、綿布や銅銭などが輸入されました。工芸品には中国文化の影響や、禅宗とともに伝わった茶の湯の影響も見られます。
各地の手工業の発達に伴って商品流通が盛んになり、水陸運輸の交通路が発達し、各地に社寺などの保護を受けた座(奈良東大寺の木工座、大和興福寺の鋳物師座、京都祇園社の綿座など)が作られました。
織田信長・豊臣秀吉が政権を握った16世紀末の30年は、文化の変革期でもありました。新興大名や都市の豪商の経済力を背景に、工芸品も世俗的な装飾性の強い絢爛豪華な意匠が好まれましたが、一方では茶の湯の影響による「侘び」の世界も存在しました。
この時代は海外との交流も盛んで、朱印船によって中国や東南アジアから生糸、絹織物、皮革などが輸入され、南蛮船(特にポルトガルやスペインの船)によって、キリスト教に代表されるヨーロッパ文化(自然科学の知識や日用品など)が伝わりました。このことは手工業の分野にも大きな刺激を与え、生活用具の中には南蛮工芸と呼ばれるヨーロッパ的な意匠を表したものも作られました。また、キリスト教の宗教用具などが、蒔絵や螺鈿による漆工品として作られ盛んに輸出されました。
もうひとつの手工業産業に影響を与えた事件に、文禄・慶長の役(1592-97年)があります。朝鮮に渡った西日本の各大名は、朝鮮の進んだ製陶技術を求めて、多くの陶工を連れ帰ったため、九州や西日本で陶器作りが盛んになりました。また、各地で綿花栽培が行われるようになりました。
また、この時代は各地に、城下町や港町などが勃興し繁栄しました。特に新しく建設される城下町の中には、商人や職人を集め、生産・営業が自由にできるように楽市・楽座の制度を設け、保護するところも出てきました。このため、地方への手工業技術の移植が促進され、技術導入の行われた各地では、産業基盤の樹立が図られました。
新興町衆を担い手とした、清新で自由闊達な特色を持つ文化の時代です。
17世紀の初頭に成立した江戸幕府が、幕藩体制の封建支配を完成させるために採用した鎖国は、商工業の発展、特に生産技術の進歩に大きな影響を与えることとなりました。鎖国後の二百数十年にわたって、すべての人々の生活用具・生産用具は、国内で自給されることになりました。
このため、日本の各地に根付いた手工業産業は、その土地の生活や経済に応えるよう工夫、改良されたり、技術の高度化、生産基盤の拡大を図ったりしながら発展することとなりました。各領主も自藩の経済的基盤を確立するために、手工業産地の振興を図ったり、同業者を城下町の一か所に集め、保護・育成を図るなどしたため、各地に特色ある手工業の産地の形成をみることとなりました。
この時代には、農業や工業の発展、商品流通、貨幣経済の進展などが見られました。封建社会の経済的基盤である農業生産が向上し、米や野菜以外の商品作物(コウゾ、漆、紅花、藍、麻、桑、茶など)の栽培が盛んになりました。
この時代の初期に、京都の本阿弥光悦は、様々な工芸技法に通じ、装飾的で斬新なデザインの作品を残しましたが、晩年洛北の地に各種の工芸家を集めて光悦村を開き、理想の製作集団を作ろうと試みたことが注目されます。
文化の中心は江戸に移り、町人にも普及しました。地方諸藩も特産品を奨励しました。しかし、封建社会の束縛から形式的なものが多く、またその反動として頽廃的なものや末梢的な技巧に走る製品も多くなりました。
このころには、手工業産業の生産様式にしだいに変化が見られるようになりました。自給自足の家内工業から、問屋制家内工業への移行です。また手工業製品の需要が多い都市部では、作業の能率化と技術水準の保持を目的として、生産の分業化が行われるようになりました。問屋はこれを統合するディレクターの役目も果たしていました。
さらに19世紀初めには、問屋制家内工業から工場制手工業の形態に発展し、織物の足利、西陣、鋳物の堺、高岡、和紙の越前などの産地に現れました。しかし、工場制手工業は、鎖国下で市場が限定されていたことや商品流通機構が封建的であることなどの理由で、あまり発達しませんでした。
この時代も、諸藩の産業振興策や商人資本の生産部門への流入といった要因を背景としつつ、高級生活用具の大衆化などを伴いながら、各地の手工業産業は、地方的特色を維持しながら発展しました。名産品として全国的に名を知られる工芸品も数多く生まれます。生活用具の中には、町人階級の好みを反映した技巧的な製品も多く作られるようになりました。
1868年に成立した明治政府は、士農工商の身分の平等化を図る一方、諸外国の資本主義に対抗するため、富国強兵を目ざして産業・経済の近代化を強力に推進しました。殖産興業の重点は、鉱業をはじめ造船、製鉄などの重工業と、輸出産業である製糸業、織物業、陶磁器業などでした。綿糸、生糸、織物、陶磁器などの産地では、生産拡大のため工場制手工業化や生産技術の機械化が進行しはじめました。 産業近代化のために外国人技術者も多く招かれましたが、ドイツのワグネル博士は、ヨーロッパの工芸技術を紹介するとともに、各地で工芸品の改良に尽力しました。明治6年に、ウィーンで開催された万国博覧会に陶磁器、漆器、銅器、七宝などの伝統工芸品が出品されて好評を博したのを契機に、伝統工芸品の産業振興の機運が高まりました。
政府は、産業技術の発展を目的として、内国勧業博覧会や共進会を開催しましたが、これには、機械、農産物のほか、織物、陶磁器、漆器、家具などの伝統工芸品も多く出品されました。
さらに、東京美術学校や京都市染色学校などのような各種の教育機関が政府や地方庁によって設立され、伝統工芸品産業の技術の保存、奨励が図られました。
また、この時代は洋服、洋傘、靴、帽子、机、椅子、洋紙、洋食器など、欧米の生活用品が都市部で普及しはじめました。
明治時代も後期になると、紡績、造船、機械製造などが著しい発展を遂げましたが、近代工業の発展は、農村にも影響を与え、生糸の輸出に直結した養蚕業は発達しましたが、藍の生産は安価な化学染料の輸入品におされて減少しました。
大正期になると生活様式も変化を見せ、農村ではなお旧来の生活様式が続きましたが、都市部では、電灯、ガス、洋服、ガラス器、洋食器などが普及するようになりました。大正の末から昭和の初めにかけて、欧米風のモダンな生活が紹介され、また構成派、アール・デコなど海外の工芸・デザイン運動の動きが、日本の工芸にも影響を与えました。
この時代の伝統工芸品産業に対する政府の政策は、主に輸出振興の一環として行われました。政府は昭和2年仙台に工芸指導所を設立しましたが、この頃、各府県でも工芸指導所や工業試験場などを設立し、工芸品の工業化を図ろうとする動きが目立ちます。
工芸作家たちの運動によって、帝展(現日展)の中に美術工芸部が設置されたのも昭和2年のことです。一方、産業の機械化の進む中にあって、地方の特色ある手工業技術の持つ素朴で健康的な美を評価しようとする民芸(民衆的工芸)運動が起こり、昭和9年に柳宗悦、浜田庄司らによって日本民芸協会が設立され、昭和11年には、日本民芸館が開館されました。